あの棚までの数メートル レンタルビデオ店という戦場
角子 前回逃げた話、今日はやるんですよね。
万太郎 逃げてない。満を持してだ。
角子 レンタルビデオ店の話ですよね。何がそんなに大変なんですか。
万太郎 角子ちゃん、店に入ったことないだろう。
角子 ないです。潰れてましたから。
万太郎 そうか。じゃあ構造から説明しないとな。
角子 構造。
万太郎 店に入ると、まず普通の映画のコーナーがある。洋画、邦画、アニメ。家族連れもいる。
角子 普通のお店ですね。
万太郎 その一番奥に、暖簾がかかった一角があるんだ。
角子 暖簾。
万太郎 あるいはカーテンだな。店によって違うが、とにかく仕切られてる。
角子 そこがアダルトコーナー。
万太郎 そうだ。十八歳未満は入れませんと書いてある。
角子 入るのは自由なんですか。
万太郎 自由だ。誰も止めない。だが、そこに入るところを見られる。
角子 誰にですか。
万太郎 誰にって、その辺にいる客だよ。家族連れとか。
角子 誰も見てないと思いますけど。
万太郎 見てるんだよ。いや、見てないかもしれないが、見られてる気がするんだ。
角子 被害妄想では。
万太郎 被害妄想だ。今ならわかる。だが当時は真剣だった。
角子 それでどうするんですか。
万太郎 まず洋画のコーナーで時間を潰す。興味のないパッケージを裏返して読んだりしてな。
角子 カモフラージュですか。
万太郎 そうだ。俺は普通の客ですという演技だ。
角子 誰も見てないのに。
万太郎 それを言うな。
角子 それで、いつ入るんですか。
万太郎 周囲に人がいなくなった瞬間だ。すっと動く。
角子 すっと。
万太郎 自然に、何気なく。急いだら逆に目立つからな。
角子 やたら技術がありますね。
万太郎 みんな身につけるんだよ、あの頃は。
角子 中に入ったら安心ですか。
万太郎 まさか。中でも問題がある。
角子 何ですか。
万太郎 知り合いがいることがある。
角子 最悪ですね。
万太郎 最悪だ。学校の先輩とか、下手すると先生とか。
角子 どうするんですか、そういうとき。
万太郎 見なかったことにする。向こうもそうする。無言の協定だ。
角子 平和的ですね。
万太郎 平和的だ。あそこには独特の礼儀があった。
角子 選ぶのは楽しいんですか。
万太郎 楽しい。ただ、時間をかけすぎると出るタイミングを逃す。
角子 まだ何かあるんですか。
万太郎 最後の関門だ。レジに持っていく。
角子 あ。
万太郎 わかるだろう。店員に手渡すんだ。
角子 顔を見られますね。
万太郎 見られる。しかも店員がバーコードを読んで、タイトルを確認する。
角子 声に出したりします。
万太郎 しない。まともな店員は絶対にしない。だが、こっちは何を思われてるか気になる。
角子 考えすぎでは。
万太郎 考えすぎだ。だが、あの数秒は長かった。
角子 返すときも行くんですよね。
万太郎 そこだ。返却がまた一仕事なんだよ。
角子 返却ポストとかないんですか。
万太郎 あった。あれは救いだった。夜中に自転車で行って、投げ込んで帰る。
角子 また自転車ですね。
万太郎 自転車は万能だ。
角子 聞いてると、全部の工程に何かしら障害がありますね。
万太郎 あるんだよ。入るのも、選ぶのも、借りるのも、返すのも。
角子 なんでそこまでするんですか。
万太郎 ……前も同じこと聞かれたな。
角子 答え出ましたか。
万太郎 出てない。ただ、あの店には空気があったんだ。
角子 空気。
万太郎 同じ暖簾をくぐった連中が、無言で棚を見てる。誰も目を合わせない。でも、そこにいる。
角子 連帯感みたいなものですか。
万太郎 連帯感とは違うな。もっと気まずい何かだ。
角子 気まずさの共有。
万太郎 それだ。それが消えたんだよ、今は。
角子 配信だと一人ですもんね。
万太郎 誰にも会わない。誰にも見られない。快適だ。
角子 快適なのに、不満そうですね。
万太郎 不満じゃない。ただ、あの気まずさが少し懐かしい。
角子 変わってますね。
万太郎 変わってるかもな。
角子 でも、ちょっとわかりました。
万太郎 わかるのか。
角子 全部が簡単すぎるのも、たしかに味気ないかもしれません。
万太郎 だろう。
角子 でも戻りたくはないです。
万太郎 そこは正直だな。
